身体が反応する文章とは―小川洋子はなぜ「悲しい」と書かないのか

登場人物の感情が書かれていないのに、なぜか息が浅くなる。
小川洋子の小説を読んでいると、そういうことが起きる。その仕掛けに踏み込んだ論文がある。

今日の論文

  • 著者: Elena Giannoulis ― ベルリン自由大学(日本近現代文学・感情研究)
  • タイトル: The Encoding of Emotions in Ogawa Yōko’s Works: Sensory Narration and Mood Tableaux(小川洋子作品における感情の符号化 ― 感覚的な語りとムード・タブロー〔仮訳〕)
  • 掲載: Japanese Language and Literature 58巻1号、2024年4月、pp.29-64 / DOI: 10.5195/jll.2024.302
  • 論文はこちら: https://doi.org/10.5195/jll.2024.302
  • アクセス: オープンアクセス(CC BY 4.0)

どんな論文?

この論文が言っているのは、ひとことで言えば、小川洋子の小説では登場人物が感情を言葉にできないように書かれていて、読者が代わりにその空白を埋めさせられている、ということだ。

著者はまず、感情研究の蓄積を引き取り、自身の用法として感情を二つに分ける。ひとつは、熱いものに触れて手を引くような、意識より前の反応。脈が速くなる、喉が詰まる、手が汗ばむといった身体の変化として現れる。もうひとつは、それを頭で受け止めて言葉にし、恐れや恥として自覚したもので、文化によって形が変わる。前者をアフェクト、後者をフィーリングと呼び分けたうえで、小川作品に出てくるのはほとんどが前者だと指摘する。

登場人物は自分の気持ちを名指さない。名指すときも「緊張」「安心」「不安」といった数語にとどまり、形容詞も「奇妙な」「取り留めない」と曖昧なものである。

代わりに書き込まれるのが、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の描写と、それに対する身体の反応で、著者はこれを感覚的な語りと呼ぶ。とくに視覚が触覚のように働く点を重視し、触覚的視覚性という名を与えている。登場人物は実際に触れていないのに、読者には触れているように感じられる。

もうひとつの鍵が、著者の造語であるムード・タブローだ。筋をまったく進めないまま、風景や室内が感情を伴わずに細かく描写される一区切りのことだ。舞台はたいてい博物館、図書館、寄宿舎、プール、温室といった、時間の止まった場所である。著者はこれをフーコーのいうヘテロトピア(社会の規範が部分的にしか効かない、時間を蓄積する場所)として読む。描写は西欧の地方都市の絵葉書のようで、具体的なのに、どの土地とも特定できない。読者は細部を与えられながら全体を自分で補うことになり、その作業が夢のような、落ち着かない空気を生む。

登場人物はアフェクトの段階で止まり、そこから先へ進めない。しかし、読者は止まれない。だから登場人物の代わりに考え、彼らが持てなかったフィーリングに進む。作品に空いた心理の空白を読者が埋めることによって読者の感情が呼び起こされている、というのがこの論文の結びだと私は理解した。

ここが面白い&読んでみてほしいポイント

小川洋子の作品を読んだあと、心の奥がざわつくような感覚が残る。登場人物への違和感や、落としどころのないもやもや。これまではそれを単なる読後感として片づけていた。この論文は、そこで終わらせずに、文章の構造のほうから突き詰めていく。自分のもやもやは構造的に導かれたものだったのかもしれない。そう思えたとき、ようやく腑に落ちた気がした。

感覚を描写した文章が身体を経由して感情に訴えるという話は思いもよらないものだった。この仕組みがあるからこそ小川洋子の文章は言語の壁を超えて届くのだという著者の考えには、目からうろこが落ちた。

小川洋子自身がこれを意図しているのかはわからないが、優れた書き手は、こうした技術を備えているのかもしれない。ここからは想像であるが、AIが同じようにアフェクトへ訴える術を身につけ、生み出された隙間の感情を人間が埋めるといったことも起きるかもしれない。そのとき私たちは自分の感情がどこから来たのかを確かめられるのだろうか。その答えは、今すぐには出せそうにないが、これからも考えていく必要がある問いのように思う。論文の続きはぜひ上記のリンクからご確認いただきたい。

※本記事は、論文の機械翻訳とAIによる要約を参考にしつつ、原文の要所を筆者自身が確認したうえで執筆しています。それでも誤りが含まれる可能性があります。お気づきの点があれば、ご指摘いただけるとありがたいです。訂正を行った場合は訂正の記録に記載いたします。


カテゴリ: 論文レビュー / タグ: #小川洋子 #日本文学 #感情 #ドイツの日本研究 #日本研究

出典: Giannoulis, Elena. “The Encoding of Emotions in Ogawa Yōko’s Works: Sensory Narration and Mood Tableaux.” Japanese Language and Literature 58, no. 1 (2024): 29-64. https://doi.org/10.5195/jll.2024.302 (オープンアクセス・CC BY 4.0)

※著者は本論文の刊行以前から、ドイツ語圏の文学事典で小川洋子と『薬指の標本』の項目を執筆するなど小川洋子やその作品をドイツ語圏に紹介している研究者である。