1885年6月19日の夜、東京の深川公園で、ひとりの女性が警察に保護された。三重から成田山の不動明王に願をかけに来たが、公開はすでに終わっており、自死を図ろうとしているとみられたのだ。インターネットのない時代に、彼女はどうやって東京での公開を知ったのだろうか——秘仏の「開帳」が江戸から明治へとどう変わったかを、当時の新聞記事から読み解いた論文がある。
今日の論文
- 著者: Matthew Mitchell ― ハイポイント大学(宗教学)
- タイトル: Opening the Curtains on Popular Practice: Kaichō in the Meiji and Taisho Periods(民衆の信仰に幕が開く——明治・大正期の開帳[仮訳])
- 掲載: Japanese Journal of Religious Studies 50巻1号(2023年)、pp.79-104 / DOI: 10.18874/jjrs.50.1.2023.79-104
- 論文はこちら: https://doi.org/10.18874/jjrs.50.1.2023.79-104
- アクセス: オープンアクセス(南山宗教文化研究所のサイトで無料公開・CCライセンスの明示なし)
どんな論文?
この論文が言っているのは、ひとことで言えば、秘仏などを寺社が公開する「開帳」は江戸時代に最も盛んだったが、明治維新で途絶えたのでも江戸時代のまま続いたのでもなく、新しい法令や鉄道とぶつかりながら少しずつ形を変えた、ということだ。江戸時代の開帳は辻の立て札や行列で知らされたが、明治になると新聞が開帳を報じ、寺社も広告を出した。著者が材料にしたのは、冒頭の一件も伝えた読売新聞と、長野の信濃毎日新聞の記事である。以下、新聞が伝える出来事と、著者の読みを分けて見ていく。
まず、新聞に残っているのは、開帳をめぐる騒ぎである。開帳は寺社にとって、お堂の修理などの資金を集める場でもあった。1875年の読売新聞には、講と呼ばれる信者の団体が、開帳で集めた寄付金を吉原での遊興に使ったといううわさが載った。翌1876年、教部省は仏像をよその管轄へ運んで公開することを禁じ、よその寺社へ出向く「出開帳」の記事は1884年の撤回までほぼ途絶える。著者は、禁令がこうした騒ぎへの対応とも、寺宝を文化財として守る政府の動きの一環とも読めるとしつつ、背景は突き止められなかったと断っている。
開帳のまわりには見世物も立った。信濃毎日新聞は、1882年の善光寺の開帳で、境内を追われた見世物が近くの空き地に並び、町じゅうの提灯で夜も昼のようだったと伝える。著者は、新聞が見世物を詳しく書いたこと自体が、見世物も開帳の空気の一部と見なされていた証しだと見る。
鉄道の記事からは、開帳に集まる人の多さがうかがえる。1884年、川崎大師の開帳に合わせて臨時の急行が走り、40日間で3万人あまりが乗ったと読売新聞は報じた。1894年の善光寺の開帳では運賃が4割引になり、1日に5,000人を超える人が詰めかけた。一方、新聞の記録の上では、善光寺の出開帳は1898年を最後に21世紀まで見られない。著者は、駅が近いなら、仏像を東京へ運ぶより参拝者に来てもらうほうが、寺にも門前町にも鉄道会社にも得だったからではないかと見ている。
明治には、仏像を美術や歴史の品として見る考え方も広がった。論文が引く先行研究によれば、1884年にはフェノロサと岡倉覚三が法隆寺夢殿の観音像を開いている。ただ、こうした見方が開帳にどう響いたかを新聞から読み取るのは難しい点は、著者も認めている。結論で著者は、新聞記事をつなぎ合わせて、法令に揺さぶられ、鉄道に姿を変えられながらも続いた明治・大正の開帳の姿を描き出している。
ここが面白い&読んでみてほしいポイント
いまでも数百年に一度といった開帳が行われることは知っていたが、出開帳のことは知らなかった。開帳には、寺社が自分の境内で秘仏を公開する「居開帳」と、秘仏をほかの土地の寺社へ運んで公開する「出開帳」があるという。江戸時代には、成田山の不動明王や善光寺の阿弥陀如来がたびたび江戸へ運ばれ、回向院などで公開された。出開帳はいまも途絶えたわけではなく、2013年には善光寺が回向院で出開帳を行い、東日本大震災からの復興のための寄付を集めたと論文の注にある。
開帳を見に行く人々には、仏像への信仰とともに、物珍しさや興味本位もあるだろう。娯楽の少なかった当時、開帳はいま以上に興行のような扱いを受けていたのかもしれない。新聞の記事の量も、開帳への関心の高さを示しているように見える。美術品としての仏像の公開などは今でも注目を集めるが、宗教的な行事とは異なる。現代にも同じように高い関心を集めている宗教的なイベントはあるだろうか。論文の続きはぜひ上記のリンクからご確認いただきたい。
※本記事は、論文の機械翻訳とAIによる要約を参考にしつつ、原文の要所を筆者自身が確認したうえで執筆しています。それでも誤りが含まれる可能性があります。お気づきの点があれば、ご指摘いただけるとありがたいです。訂正を行った場合は訂正の記録に記載いたします。
カテゴリ: 論文レビュー / タグ: #開帳 #秘仏 #宗教学 #日本研究
出典: Mitchell, Matthew. “Opening the Curtains on Popular Practice: Kaichō in the Meiji and Taisho Periods.” Japanese Journal of Religious Studies 50/1 (2023): 79–104. https://doi.org/10.18874/jjrs.50.1.2023.79-104(CCライセンスの明示なし)/https://nirc.nanzan-u.ac.jp/journal/6/issue/345/article/2352
※1879年にコレラが流行したとき、京都市は開帳や祭礼、説教などの集まりを止め、町が不景気に沈んだと読売新聞は伝えている。著者はこれを、新型コロナウイルスの流行で善光寺の御開帳が2021年から2022年へ延期されたことと重ねている
